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西田元典 | 思維(日漢對(duì)照版)

 新用戶16394028 2023-09-13

思維

西田幾多郎 文

何倩[1]

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作者簡(jiǎn)介

西田幾多郎(1870.06.17~1945.06.07)生于日本石川縣金澤市,是日本近代哲學(xué)史上最有代表性的哲學(xué)家,京都學(xué)派創(chuàng)始人,。東京大學(xué)哲學(xué)科預(yù)科畢業(yè)后,,曾在山口高中、第四高中,、學(xué)習(xí)院大學(xué)任教,。1910年起任京都大學(xué)副教授、教授,。1911年發(fā)表《善的研究》,,后陸續(xù)發(fā)表《自覺(jué)中的直觀與反省》、《無(wú)的自覺(jué)限定》,、《哲學(xué)的根本問(wèn)題》等,。試圖以東方佛教思想為基礎(chǔ),以西方哲學(xué)思想為材料,,求得東西方思想的內(nèi)在統(tǒng)一,,確立了獨(dú)特的“西田哲學(xué)”體系,并培養(yǎng)了許多學(xué)生,,形成“京都學(xué)派”,。對(duì)日本大正昭和時(shí)期的哲學(xué)思想有重大影響。1940年獲日本文化勛章,?!段魈飵锥嗬扇饭?9卷,由日本巖波書店出版 ,。

   思惟というのは心理學(xué)から見(jiàn)れば,、表象間の関係を定めこれを統(tǒng)一する作用である。その最も単一なる形は判斷であって,、即ち二つの表象の関係を定め,、これを結(jié)合するのである。しかし我々は判斷において二つの獨(dú)立なる表象を結(jié)合するのではなく,、かえってある一つの全き表象を分析するのである,。たとえば「馬が走る」という判斷は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである,。それで,、判斷の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。判斷において主客両表象の結(jié)合は,、実にこれによりてできるのである,。勿論いつでも全き表象が先ず現(xiàn)われて、これより分析が始まるというのではない,。先ず主語(yǔ)表象があって,、これより一定の方向において種々の連想を起し,、選択の後その一に決定する場(chǎng)合もある。しかしこの場(chǎng)合でも,、いよいよこれを決定する時(shí)には,、先ず主客両表象を含む全き表象が現(xiàn)われて來(lái)なければならぬ。つまりこの表象が始から含蓄的に働いていたのが,、現(xiàn)実となる所において判斷を得るのである,。かく判斷の本には純粋経験がなければならぬということは、ただに事実に対する判斷の場(chǎng)合のみではなく,、純理的判斷というような者においても同様である,。たとえば幾何學(xué)の公理の如き者でも皆一種の直覚に基づいている。たとい抽象的概念であっても,、二つの者を比較し判斷するにはその本において統(tǒng)一的ある者の経験がなければならぬ,。いわゆる思惟の必然性というのはこれより出でくるのである。故に若し前にいったように知覚の如き者のみでなく,、関係の意識(shí)をも経験と名づくることができるならば,、純理的判斷の本にも純粋経験の事実があるということができるのである,。また推論の結(jié)果として生ずる判斷について見(jiàn)ても,、ロックが論証的知識(shí)においても一歩一歩に直覚的証明がなければならぬといったように(Locke, AnEssay concerning Human Understanding, Bk. IV,Chap. II, 7)連鎖となる各判斷の本にはいつも純粋経験の事実がなければならぬ。種々の方面の判斷を綜合して斷案を下す場(chǎng)合においても,、たとい全體を統(tǒng)一する事実的直覚はないにしても,、すべての関係を綜合統(tǒng)一する論理的直覚が働いている(いわゆる思想の三法則の如きも一種の內(nèi)面的直覚である)。たとえば種々の観察より推して地球が動(dòng)いていなければならぬというのも,、つまり一種の直覚に基づける論理法によりて判斷するのである,。

所謂思維,從心理學(xué)上來(lái)看,,就是確定表象之間的關(guān)系,,而使之統(tǒng)一的作用。它的最單純的形式是判斷,,也就是確定兩個(gè)表象的關(guān)系,,而把它結(jié)合起來(lái)。但是,,我們?cè)谂袛嗌?,并不是把兩個(gè)獨(dú)立的表象結(jié)合起來(lái),而是對(duì)某一個(gè)完整的表象進(jìn)行分析,。例如,,“馬跑”這個(gè)判斷,乃是通過(guò)對(duì)“跑著的馬”這個(gè)表象進(jìn)行分析而產(chǎn)生的,。因此,,在判斷的背后,,總是有純粹經(jīng)驗(yàn)的事實(shí)。主客兩表象在判斷上的結(jié)合,,確實(shí)是由此而成為可能的,。當(dāng)然,這并不是說(shuō),,無(wú)論什么時(shí)候都是完整的表象首先出現(xiàn),,然后由此開始進(jìn)行分析。也還有這種情況:先有主詞表象,,由此在一定的方向上產(chǎn)生種種聯(lián)想,,經(jīng)過(guò)選擇以后決定其一的。但是就是在這種情況下,,在即將作出決定的時(shí)候,,包含主客兩表象的完整的表象也必須首先顯示出來(lái)。也就是說(shuō),,這個(gè)表象起先含蓄地進(jìn)行活動(dòng),,在成為現(xiàn)實(shí)的時(shí)候才得到判斷??梢?jiàn)在判斷的根本上必須有純粹經(jīng)驗(yàn),,這不僅對(duì)事實(shí)的判斷如此,就是在純理性的判斷那種情況下也是一樣的,。例如幾何學(xué)上的公理也都是基于一種直覺(jué),,即使是抽象的概念,如果要對(duì)兩件東西進(jìn)行比較和判斷,,就必須在它的根本上有某種統(tǒng)一性的經(jīng)驗(yàn),。所謂思維的必然性就是由此產(chǎn)生的。因此,,如上所述,,不僅是知覺(jué),連關(guān)系的意識(shí),,如果也可以名之為“經(jīng)驗(yàn)”的話,,就可以說(shuō)在純理性的判斷的根本上也有純粹經(jīng)驗(yàn)的事實(shí)。又以作為推理的結(jié)果而產(chǎn)生的判斷來(lái)看,,正如洛克所說(shuō)的,,即使在論證的知識(shí)中也必須逐步具有直覺(jué)的證明那樣,成為連續(xù)的各個(gè)判斷的根本上總是必須有純粹經(jīng)驗(yàn)的事實(shí),。在綜合種種方面的判斷作結(jié)論的時(shí)候,,即使沒(méi)有統(tǒng)一全體的事實(shí)的直覺(jué),也有對(duì)一切關(guān)系進(jìn)行綜合統(tǒng)一的邏輯的直覺(jué)在進(jìn)行活動(dòng)(所謂思維的三規(guī)律也是一種內(nèi)在的直覺(jué)),。例如人們根據(jù)種種觀察推測(cè)地球應(yīng)該是轉(zhuǎn)動(dòng)著的,,這也是通過(guò)甚于某種直覺(jué)的邏輯法而下判斷的,。

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   従來(lái)伝統(tǒng)的に思惟と純粋経験とは全く類を異にせる精神作用であると考えられている。しかし今すべての獨(dú)斷を棄てて直接に考え,、ジェームスが「純粋経験の世界」と題せる小論文にいったように,、関係の意識(shí)をも経験の中に入れて考えて見(jiàn)ると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができると思う,。知覚と思惟の要素たる心像とは,、外より見(jiàn)れば、一は外物より來(lái)る末端神経の刺戟に基づき,、一は脳の皮質(zhì)の刺戟に基づくというように區(qū)別ができ,、また?jī)?nèi)から見(jiàn)ても、我々は通常知覚と心像とを混同することはない,。しかし純心理的に考えて,、どこまでも厳密に區(qū)別ができるかというに、そは頗る困難である,、つまり強(qiáng)度の差とかその外種々の関係の異なるより來(lái)るので,、絶対的區(qū)別はないのである(夢(mèng)、幻覚等において我々はしばしば心像を知覚と混同することがある),。原始的意識(shí)にかかる?yún)^(qū)別があったのではなく,、ただ種々の関係より區(qū)別せられるようになったのであろう。また一見(jiàn),、知覚は単一であって,、思惟は複雑なる過(guò)程であるように見(jiàn)えるが、知覚といっても必ずしも単一ではない,、知覚も構(gòu)成的作用である。思惟といってもその統(tǒng)一の方面より見(jiàn)れば一の作用である,。ある統(tǒng)一者の発展と見(jiàn)ることができる,。

思維和純粹經(jīng)驗(yàn)一向都被傳統(tǒng)地認(rèn)為是完全不同類的精神作用,但如果我們現(xiàn)在拋棄一切獨(dú)斷,,而直接進(jìn)行思考的話,,就會(huì)認(rèn)為,像詹姆士在以“純粹經(jīng)驗(yàn)的世界”為題的短文中所說(shuō)的那樣,,如果把關(guān)系的意識(shí)也加入經(jīng)驗(yàn)之中來(lái)考慮,,那么思維的作用也可從說(shuō)是純粹經(jīng)驗(yàn)的一種。知覺(jué)和作為思維要素的意象,,如果從外表來(lái)看,,可以區(qū)別為一個(gè)是基于外物引起的末梢神經(jīng)的刺激,一個(gè)是甚于大腦皮質(zhì)的刺激,。再?gòu)膬?nèi)部來(lái)看,,我們通常也不會(huì)把知覺(jué)和意象混同起來(lái),。但是,從純粹心理上來(lái)考慮,,說(shuō)是可以徹底嚴(yán)密地加以區(qū)別,,那是很困難的,總之它們是由于強(qiáng)度的差異或其他種種關(guān)系的不同而產(chǎn)生的,,并沒(méi)有絕對(duì)的區(qū)別(在做夢(mèng)或幻覺(jué)等情況下,,我們往往把意象與知覺(jué)混同起來(lái))。這種區(qū)別,,不是在原始的意識(shí)中就有了的,,而只是通過(guò)種種關(guān)系才發(fā)生的。并且,,乍一看來(lái),,好像知覺(jué)是單一的過(guò)程,思維是復(fù)雜的過(guò)程,;但知覺(jué)也未必是單一的,,它也是構(gòu)成性的作用。所謂思維,,從它的統(tǒng)一的方面來(lái)看,,也是一種作用,又可以看作是某個(gè)統(tǒng)一體的發(fā)展,。

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   かく思惟と知覚的経験の如き者とを同一種と考えることについては種々の異論もあるであろうから,、余はこれより少しくこれらの點(diǎn)について論じて見(jiàn)ようと思う。普通には知覚的経験の如きは所動(dòng)的で,、その作用がすべて無(wú)意識(shí)であり,、思惟はこれに反し能動(dòng)的でその作用がすべて意識(shí)的であると考えられている。しかしかように明なる?yún)^(qū)別はどこにあるであろうか,。思惟であっても,、そが自由に活動(dòng)し発展する時(shí)には殆ど無(wú)意識(shí)的注意の下において行われるのである、意識(shí)的となるのはかえってこの進(jìn)行が妨げられた場(chǎng)合である,。思惟を進(jìn)行せしむる者は我々の隨意作用ではない,、思惟は己自身にて発展するのである。我々が全く自己を棄てて思惟の対象即ち問(wèn)題に純一となった時(shí),、さらに適當(dāng)にいえば自己をその中に沒(méi)した時(shí),、始めて思惟の活動(dòng)を見(jiàn)るのである。思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動(dòng)するのである,。我々の意志に従うのではない,。対象に純一になること、即ち注意を向けることを有意的といえばいいうるであろうが,、この點(diǎn)においては知覚も同一であろうと思う,、我々は見(jiàn)んと欲する物に自由に注意を向けて見(jiàn)ることができる,。勿論思惟においては知覚の場(chǎng)合よりも統(tǒng)一が寛であり、その推移が意識(shí)的であるように思われるので,、前にこれを以てその特徴として置いたが,、厳密に考えて見(jiàn)るとこの區(qū)別も相対的であって、思惟においても一表象より一表象に推移する瞬間においては無(wú)意識(shí)である,、統(tǒng)一作用が現(xiàn)実に働きつつある間は無(wú)意識(shí)でなければならぬ,。これを?qū)澫螭趣筏埔庾R(shí)する時(shí)には、すでにその作用は過(guò)去に屬するのである,。かく思惟の統(tǒng)一作用は全然意志の外にあるのであるが,、ただ我々がある問(wèn)題について考える時(shí)、種々の方向があってその取捨が自由であるように思われるのである,。しかしかかる現(xiàn)象は知覚の場(chǎng)合にもないのではない,。少しく複雑なる知覚においては如何に注意を向けるかは自由である、たとえば一幀の畫を見(jiàn)るにしても,、形に注意することもできまた色彩に注意することもできる,。その外、知覚では我々は外から動(dòng)かされ,、思惟では內(nèi)より動(dòng)くなどいうが,、內(nèi)外の區(qū)別というも要するに相対的にすぎぬ、ただ思惟の材料たる心像は比較的変動(dòng)し易く自由であるからかく見(jiàn)えるのである,。

由于人們對(duì)于把思維和知覺(jué)的經(jīng)驗(yàn)視為同類的看法可能有種種異議:所以我想就這些問(wèn)題略加探討,。一般認(rèn)為,知覺(jué)的經(jīng)驗(yàn)是被動(dòng)的,,它的作用都是無(wú)意識(shí)的,;認(rèn)為思維卻與此相反,是能動(dòng)的,,它的作用都是有意識(shí)的,。但是,像這樣明顯的區(qū)別在什么地方呢,!就是以思維來(lái)說(shuō),在它自由地活動(dòng)和發(fā)展時(shí),,也幾乎是在無(wú)意識(shí)的注意之下進(jìn)行的,,只有在它的進(jìn)行受到阻礙的場(chǎng)合下才成為有意識(shí)的。促使思維進(jìn)行的,,不是我們的隨意作用,,思維本身是在發(fā)展的。我們要在完全拋開自己而與思維的對(duì)象即問(wèn)題打成一片的時(shí)候,,更恰當(dāng)?shù)卣f(shuō),,就是把自己消失在思維對(duì)象中的時(shí)候,,才能看到思維的活動(dòng)。思維有自己的規(guī)律,,自主地進(jìn)行活動(dòng),,而不是順從著我們的意志的。如果認(rèn)為和對(duì)象打成一片,,即認(rèn)為把注意力放在對(duì)象上是有意識(shí)的,,固然也可以,但在這一點(diǎn)上,,我認(rèn)為知覺(jué)也是同樣的,。我們對(duì)于想看的東西是可以自由地注視的。當(dāng)然,,拿思維來(lái)說(shuō),,它的統(tǒng)一比知覺(jué)的統(tǒng)一更為廣闊,由于它的轉(zhuǎn)變可以認(rèn)為是有意識(shí)的,,所以雖然以前曾經(jīng)把這點(diǎn)當(dāng)作它的特征,;但如嚴(yán)密地加以思考,就可以知道這個(gè)區(qū)別也是相對(duì)的,。即使拿思維來(lái)說(shuō),,從一個(gè)表象向另外一個(gè)表象轉(zhuǎn)變的瞬息之間,也是無(wú)意識(shí)的,;統(tǒng)一作用在現(xiàn)實(shí)地進(jìn)行活動(dòng)時(shí),,必須是無(wú)意識(shí)的。在意識(shí)到把這個(gè)作為對(duì)象的時(shí)候,,它的作用就已經(jīng)屬于過(guò)去,。可見(jiàn)思維的統(tǒng)一作用雖然完全是在意志之外,,但在我們對(duì)某個(gè)問(wèn)題進(jìn)行思考時(shí),,有種種的方向,而它的取舍可以認(rèn)為是自由的,。不過(guò),,這種現(xiàn)象,在知覺(jué)的場(chǎng)合也不是沒(méi)有的,。就略為復(fù)雜的知覺(jué)來(lái)說(shuō),,如何對(duì)事物注意這點(diǎn)是自由的。例如,,在看一幅畫的時(shí)候,,能夠注意它的形狀,也能夠注意它的色彩。此外通常說(shuō),,知覺(jué)是我們?yōu)橥馕锼鶆?dòng),,而思維是內(nèi)心活動(dòng),但總的說(shuō)來(lái),,內(nèi)外的區(qū)別也不過(guò)是相對(duì)的,。僅因作為思維的材料的意象是比較容易變動(dòng)和自由的,所以才顯得是這樣,。

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   次に普通には知覚は具象的事実の意識(shí)であり,、思惟は抽象的関係の意識(shí)であって、両者全然その類を異にする者のように考えられている,。しかし純粋に抽象的関係というような者は我々はこれを意識(shí)することはできぬ,、思惟の運(yùn)行もある具象的心像を藉りて行われるのである、心像なくして思惟は成立しない,。たとえば三角形の総べての角の和は二直角であるということを証明するにも,、ある特殊なる三角形の心像に由らねばならぬのである、思惟は心像を離れた獨(dú)立の意識(shí)ではない,、これに伴う一現(xiàn)象である,。ゴール Gore は、心像とその意味との関係は刺戟とその反応との関係と同一であると説いている(Dewey, Studies in Logical Theory),。思惟は心像に対する意識(shí)の反応であって,、而してまた心像は思惟の端緒である、思惟と心像とは別物ではない,。いかなる心像であっても決して獨(dú)立ではない,、必ず全意識(shí)と何らかの関係において現(xiàn)われる、而してこの方面が思惟における関係の意識(shí)である,、純粋なる思惟と思われる者も,、ただこの方面の著しき者にすぎないのである。さて心像と思惟との関係を右の如く考えた所で,、知覚においてはかくの如き思惟的方面がないかというに,、決してそうではない。すべての意識(shí)現(xiàn)象のように知覚も一の體系的作用である,、知覚においてはその反応はかえって顕著であって意志となり動(dòng)作となって現(xiàn)われるのであるが,、心像においては単に思惟として內(nèi)面的関係に止まるのである。されば事実上の意識(shí)には知覚と心像との區(qū)別はあるが,、具象と抽象との別はない,、思惟は心像間の事実の意識(shí)である、而して知覚と心像との別も前にいったように厳密なる純粋経験の立腳地よりしては,、どこまでも區(qū)別することはできないのである。

其次,通常認(rèn)為知覺(jué)是具體事實(shí)的意識(shí),;思維是抽象關(guān)系的意識(shí),,似乎兩者是完全不同類的東西。但是,,我們不能純粹地意識(shí)抽象關(guān)系這種東西,,思維的運(yùn)行也是借著某種具體的意象進(jìn)行的,沒(méi)有意象,,思維便不成立,。例如,證明三角形各角之和等于二直角,,也必須借助于某個(gè)特殊三角形的意象,。思維不是離開了意象而獨(dú)立的意識(shí),而是伴隨著意象的一個(gè)現(xiàn)象,。戈?duì)枹僬f(shuō),,意象及其意義之間的關(guān)系與刺激及其反應(yīng)之間的關(guān)系是相同的。思維是意識(shí)對(duì)意象的反應(yīng),,而意象又是思維的開端,,思維與意象不是不同的東西。無(wú)論什么意象都決不是獨(dú)立的,,必然表現(xiàn)在同整個(gè)意識(shí)的某種關(guān)系上,,并且這方面是屬于思維上的關(guān)系的意識(shí);我們所認(rèn)為的純粹思維,,也不過(guò)是這方面的顯著的東西而已,。基于我們對(duì)意象和思維的關(guān)系的上述看法,,是不是說(shuō)在知覺(jué)方面就沒(méi)有這種思維呢,?不,決不是這樣,。像一切的意識(shí)現(xiàn)象那樣,,知覺(jué)也是一種體系的作用。而且它的反應(yīng)更為顯著,,表現(xiàn)成為意志,,成為動(dòng)作。但是,,意象卻只局限于作為思維的內(nèi)在關(guān)系,。因此,事實(shí)上的意識(shí)雖有知覺(jué)與意象的區(qū)別,,但是并沒(méi)有具體和抽象的劃分,,而思維是意象間的事實(shí)的意識(shí),。并且,知覺(jué)與意象的差異,,也如前所述,,從嚴(yán)密的純粹經(jīng)驗(yàn)的觀點(diǎn)來(lái)看,是始終不能加以區(qū)別的,。

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   以上は心理學(xué)上より見(jiàn)て,、思惟も純粋経験の一種であることを論じたのであるが、思惟は単に個(gè)人的意識(shí)の上の事実ではなくして客観的意味を有っている,、思惟の本領(lǐng)とする所は真理を現(xiàn)わすにあるのである,、自分で自分の意識(shí)現(xiàn)象を直覚する純粋経験の場(chǎng)合には真妄ということはないが、思惟には真妄の別があるともいえる,。これらの點(diǎn)を明にするにはいわゆる客観,、実在、真理等の意義を詳論する必要はあるが,、極めて批評(píng)的に考えて見(jiàn)ると,、純粋経験の事実の外に実在なく、これらの性質(zhì)も心理的に説明ができると思う,。前にもいったように,、意識(shí)の意味というのは他との関係より生じてくる、換言すればその意識(shí)の入り込む體系によりて定まってくる,。同一の意識(shí)であっても,、その入り込む體系の異なるによりて種々の意味を生ずるのである。たとえば意味の意識(shí)であるある心像であっても,、他に関係なく唯それだけとして見(jiàn)た時(shí)には,、何らの意味も持たない単に純粋経験の事実である。これに反し事実の意識(shí)なるある知覚も,、意識(shí)體系の上に他と関係を有する點(diǎn)より見(jiàn)れば意味を有っている,、ただ多くの場(chǎng)合にその意味が無(wú)意識(shí)であるのである。しからばいかなる思想が真でありいかなる思想が偽であるかというに,、我々はいつでも意識(shí)體系の中で最も有力なる者,、即ち最大最深なる體系を客観的実在と信じ、これに合った場(chǎng)合を真理,、これと衝突した場(chǎng)合を偽と考えるのである,。この考より見(jiàn)れば、知覚にも正しいとか誤るとかいうことがある,。即ちある體系よりして見(jiàn)て,、よくその目的に合うた時(shí)が正しく、これに反した時(shí)が誤ったのである,。勿論これらの體系の中には種々の意味があるので,、知覚の背後における體系は多く実踐的であるが,、思惟の體系は純知識(shí)的であるというような區(qū)別もできるであろう。しかし余は知識(shí)の究竟的目的は実踐的であるように,、意志の本に理性が潛んでいるといえると思う,。この事は後に意志の処に論じようと思うが、かかる體系の區(qū)別も絶対的とはいえないのである,。また同じ知識(shí)的作用であっても、連想とか記憶とかいうのは単に個(gè)人的意識(shí)內(nèi)の関係統(tǒng)一であるが,、思惟だけは超個(gè)人的で一般的であるともいえる,。しかしかかる?yún)^(qū)別も我々の経験の範(fàn)囲を強(qiáng)いて個(gè)人的と限るより起るので、純粋経験の前にはかえって個(gè)人なる者のないことに考え到らぬのである(意志は意識(shí)統(tǒng)一の小なる要求で,、理性はその深遠(yuǎn)なる要求である),。

以上根據(jù)心理學(xué)論述了思維也是純粹經(jīng)驗(yàn)的一種,但是思維不僅是個(gè)人的意識(shí)上的事實(shí),,而且具有客觀的意義,。思維的特點(diǎn)在于表現(xiàn)真理。在自己直覺(jué)自己的意識(shí)現(xiàn)象這種純粹經(jīng)驗(yàn)的場(chǎng)合,,雖然沒(méi)有真?zhèn)?,但在思維上也可以說(shuō)是有真?zhèn)沃畡e的。我們?yōu)榱税堰@些問(wèn)題搞清楚,,實(shí)有必要詳細(xì)論述一下所謂客觀,、實(shí)在、真理等的意義,,但如極其批判性地加以思考時(shí),,則可以認(rèn)為在純粹經(jīng)驗(yàn)的事實(shí)之外沒(méi)有實(shí)在,它們的性質(zhì)也可以從心理上予以說(shuō)明,。如上所述,,所謂意識(shí)的意義,是從它和別的事物的關(guān)系中產(chǎn)生出來(lái)的,,換句話說(shuō),,就是由意識(shí)所進(jìn)入的體系決定的。即使是同一的意識(shí),,也會(huì)由于它進(jìn)入的體系的不同而產(chǎn)生種種不同的意義,。例如,以作為意義意識(shí)的某種意象而言,,在把它看成與別的事物無(wú)關(guān),,只是一個(gè)意象的時(shí)候,它便是一個(gè)沒(méi)有任何意義的單純的純粹經(jīng)驗(yàn)的事實(shí),。反之,,對(duì)于作為事實(shí)意識(shí)的某種知覺(jué),,如果從它在意識(shí)體系上與別的事物有關(guān)這點(diǎn)來(lái)看,它卻是具有意義的,;只是在許多場(chǎng)合,,它的意義是無(wú)意識(shí)的。那么怎樣來(lái)辨別思想的真?zhèn)文??我們始終相信,,意識(shí)體系中最有力的,即最大最深的體系是客觀的實(shí)在,,與此相符合的便是真理,,與此相矛盾的便是偽的。如果從這種觀點(diǎn)出發(fā),,知覺(jué)也可以說(shuō)有正確的和錯(cuò)誤的,。即從某個(gè)體系來(lái)看,恰好合乎它的目的時(shí),,便是正確的,;與此相反的時(shí)候就是錯(cuò)誤的。當(dāng)然在這些體系之中也有種種不同的意義,,所以還是可從作出這樣的區(qū)別:即知覺(jué)背后的體系大都是實(shí)踐性的,,而思維的體系是純知識(shí)性的。不過(guò)我認(rèn)為,,正像知識(shí)的最終目的是實(shí)踐性的一樣,,可以說(shuō)在意志的根基里是潛藏著理性的。關(guān)于這個(gè)問(wèn)題,,我想以后在“意志”章中再加以論述,,但這種體系的區(qū)別也不能說(shuō)是絕對(duì)的。并且即使是相同的知識(shí)作用,,雖然聯(lián)想或記憶只是個(gè)人意識(shí)內(nèi)的關(guān)系的統(tǒng)一,,而只有思維才可以說(shuō)是超個(gè)人的和一般性的。但是這種區(qū)別,,也是由于把我們的經(jīng)驗(yàn)的范圍勉強(qiáng)地限于個(gè)人才產(chǎn)生,,沒(méi)有考慮到在純粹經(jīng)驗(yàn)之前,反而沒(méi)有個(gè)人這點(diǎn)(意志是意識(shí)統(tǒng)一的小的要求,,而理性是它的深遠(yuǎn)的要求),。

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   これまで思惟と純粋経験とを比較し、普通にはこの二者が全く類を異にすると思うている點(diǎn)も,、深く考えて見(jiàn)ると一致の點(diǎn)を見(jiàn)出し得ることを述べたのであるが,、今少しく思惟の起源および帰趨について論じ、さらに右二者の関係を明にしようと思う,。我々の意識(shí)の原始的狀態(tài)または発達(dá)せる意識(shí)でもその直接の狀態(tài)は,、いつでも純粋経験の狀態(tài)であることは誰(shuí)しも許す所であろう,。反省的思惟の作用は次位的にこれより生じた者である。しからば何故に此の如き作用が生ずるのであるかというに,、前にいったように意識(shí)は元來(lái)一の體系である,、自ら己を発展完成するのがその自然の狀態(tài)である、しかもその発展の行路において種々なる體系の矛盾衝突が起ってくる,、反省的思惟はこの場(chǎng)合に現(xiàn)われるのである,。しかし一面より見(jiàn)てかくの如く矛盾衝突するものも、他面より見(jiàn)れば直に一層大なる體系的発展の端緒である,。換言すれば大なる統(tǒng)一の未完の狀態(tài)ともいうべき者である,。たとえば行為においてもまた知識(shí)においても、我々の経験が複雑となり種々の連想が現(xiàn)われ,、その自然の行路を妨げた時(shí)我々は反省的となる。この矛盾衝突の裏面には暗に統(tǒng)一の可能を意味しているのであって,、決意或は解決の時(shí)すでに大なる統(tǒng)一の端緒が成立するのである,。しかし我々は決して単に決意または解決という如き內(nèi)面的統(tǒng)一の狀態(tài)にのみ止まるのではない、決意はこれに実行の伴うは言をまたず,、思想でも必ず何らかの実踐的意味をもっている,、思想は必ず実行に現(xiàn)われねばならぬ、即ち純粋経験の統(tǒng)一に達(dá)せねばならぬ,。されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである,。要するに思惟は大なる意識(shí)體系の発展実現(xiàn)する過(guò)程にすぎない、若し大なる意識(shí)統(tǒng)一に住してこれを見(jiàn)れば,、思惟というのも大なる一直覚の上における波瀾にすぎぬのである,。たとえば我々がある目的について苦慮する時(shí)、目的なる統(tǒng)一的意識(shí)はいつでもその背後に直覚的事実として働いているのである,。それで思惟といっても別に純粋経験とは異なった?jī)?nèi)容も形式も有っておらぬ,、ただその深く大ではあるが未完の狀態(tài)である。他面より見(jiàn)れば真の純粋経験とは単に所動(dòng)的ではなく,、かえって構(gòu)成的で一般的方面を有っている,、即ち思惟を含んでいるといってよい。

到這里為止,,我已經(jīng)對(duì)思維與純粹經(jīng)驗(yàn)做了比較,,并且作了論述,雖然通常認(rèn)為兩者完全是不同類的,,但如果進(jìn)一步來(lái)思考,,便能發(fā)現(xiàn)其一致之點(diǎn)。現(xiàn)在我想來(lái)談?wù)勊季S的起源及其歸結(jié),,以便進(jìn)一步闡明上述二者的關(guān)系,,我們的意識(shí)的原始狀態(tài)或發(fā)展了的意識(shí)的直接狀態(tài),,始終是純粹經(jīng)驗(yàn)的狀態(tài),這將是能都承認(rèn)的,。反省思維的作用是其次由此產(chǎn)生的,。那么為什么會(huì)產(chǎn)生這種作用呢?如前所述,,意識(shí)本來(lái)是一個(gè)體系,,自行發(fā)展完成是它的自然狀態(tài),并且在它的發(fā)展過(guò)程中,,發(fā)生種種體系的矛盾沖突,,而反省的思維就在這種場(chǎng)合下出現(xiàn)。但是,,從一方面來(lái)看誠(chéng)然是這樣矛盾沖突著的狀態(tài),,如果從另一方面來(lái)看,卻又是更大體系的發(fā)展的開端,。換句話說(shuō),,也可以說(shuō)是大的統(tǒng)一的未完成的狀態(tài)。如就行為或知識(shí)來(lái)說(shuō),,在我們的經(jīng)驗(yàn)復(fù)雜化,,并出現(xiàn)種種聯(lián)想,而其自然的進(jìn)程又受到阻礙時(shí),,就發(fā)生反省,。在這個(gè)矛盾沖突的里面暗中意味著統(tǒng)一的可能,因而在決意或解決的時(shí)候,,就已經(jīng)成立大的統(tǒng)一的端緒,。但是,我們決不會(huì)只停留在決意或解決這種內(nèi)在統(tǒng)一的狀態(tài)的,。決意一定要帶來(lái)實(shí)踐,,思想也必然具有某種實(shí)踐的意義。也就是說(shuō),,思想必須顯示在實(shí)踐上,,那必須到達(dá)純粹經(jīng)驗(yàn)的統(tǒng)一。因此,,純粹經(jīng)驗(yàn)的事實(shí)既是我們的思想之始,,又是我們的思想之終??傊?,思維不過(guò)是大的意識(shí)體系的發(fā)展實(shí)現(xiàn)的過(guò)程。如果在大的意識(shí)統(tǒng)一上來(lái)看,所謂思維,,也不過(guò)是大的一個(gè)直覺(jué)之上的波濤而已,。例如在我們就某種目的進(jìn)行深思熟慮的時(shí)候,成為目的的統(tǒng)一意識(shí)就始終在它的背后當(dāng)做直覺(jué)的事實(shí)進(jìn)行著活動(dòng),。因此,,思維也并不另外具有和純粹經(jīng)驗(yàn)不同的內(nèi)容和形式,只是它深而且大,,但處于未完成的狀態(tài),。從另一方面來(lái)看,所謂真正的純粹經(jīng)驗(yàn),,不只是被動(dòng)的,,相反卻具有構(gòu)成性的和一般性的方面,也可以說(shuō)是包含著思維的,。

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   純粋経験と思惟とは元來(lái)同一事実の見(jiàn)方を異にした者である,。かつてヘーゲルが力を極めて主張したように、思惟の本質(zhì)は抽象的なるにあるのでなく,、かえってその具體的なるにあるとすれば,、余が上にいった意味の純粋経験と殆ど同一となってくる、純粋経験は直に思惟であるといってもよい,。具體的思惟より見(jiàn)れば、概念の一般性というのは普通にいうように類似の性質(zhì)を抽象した者ではない,、具體的事実の統(tǒng)一力である,、ヘーゲルも一般とは具體的なる者の魂であるといっている(Hegel,Wissenschaft der Logik, III, S.37)。而して我々の純粋経験は體系的発展であるから,、その根柢に働きつつある統(tǒng)一力は直に概念の一般性その者でなければならぬ,、経験の発展は直に思惟の進(jìn)行となる、即ち純粋経験の事実とはいわゆる一般なる者が己自身を?qū)g現(xiàn)するのである,。感覚或は連想の如き者においてすら,、その背後に潛在的統(tǒng)一作用が働いている。これに反し思惟においても統(tǒng)一が働く瞬間には,、前にいったようにその統(tǒng)一自身は無(wú)意識(shí)である,。ただ統(tǒng)一が抽象せられ、対象化せられた時(shí),、別の意識(shí)となって現(xiàn)われる,、しかしこの時(shí)はすでに統(tǒng)一の作用を失っているのである。純粋経験とは単一とか所動(dòng)的とかいう意味ならば思惟と相反するでもあろうが,、経験とはありのままを知るという意ならば,、単一とか所動(dòng)的とかいうことはかえって純粋経験の狀態(tài)とはいわれない、真に直接なる狀態(tài)は構(gòu)成的で能動(dòng)的である,。

純粹經(jīng)驗(yàn)與思維本來(lái)是同一事實(shí)的不同看法的產(chǎn)物,。如果像黑格爾所竭力主張的,,思維的本質(zhì)不在于它是抽象性的,而在于它是具體性的,,那就和我在上面所說(shuō)的那種純粹經(jīng)驗(yàn)幾乎成為同一的,,也可以說(shuō)純粹經(jīng)驗(yàn)就是思維。從具體的思維來(lái)看,,所謂概念的一般性,,不是像通常所謂把類似的性質(zhì)抽象化了的東西,而是具體事實(shí)的統(tǒng)一力,。黑格爾也說(shuō),,一般是具體的東西的靈魂。并且由于我們的純粹經(jīng)驗(yàn)是體系的發(fā)展,,所從在它的根基上活動(dòng)著的統(tǒng)一力,,必須立即是概念的一般性本身。經(jīng)驗(yàn)的發(fā)展立即成為思維的進(jìn)行,,即純粹經(jīng)驗(yàn)的事實(shí)就是所謂一般性東西的自我實(shí)現(xiàn),。即使就感覺(jué)或聯(lián)想來(lái)說(shuō),在它們的背后也有潛在的統(tǒng)一作用在進(jìn)行著活動(dòng),。反之,,就思維來(lái)說(shuō),在統(tǒng)一進(jìn)行活動(dòng)的瞬間,,如上所述,,統(tǒng)一本身是無(wú)意識(shí)的。只有在統(tǒng)一被抽象化和被對(duì)象化了的時(shí)候,,才成為別的意識(shí)而出現(xiàn),。但是在這個(gè)時(shí)候就已經(jīng)喪失了統(tǒng)一的作用。所謂純粹經(jīng)驗(yàn),,如果意味著單一的或被動(dòng)性的,,就也可能與思維相反;但所謂經(jīng)驗(yàn),,如果是據(jù)實(shí)感知的意思的話,,那么所謂單一的或被動(dòng)性的反而不能說(shuō)是鈍粹經(jīng)驗(yàn)的狀態(tài)。真正直接的狀態(tài),,是構(gòu)成性的和能動(dòng)性的,。

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   我々は普通に思惟によりて一般的なる者を知り、経験によりて個(gè)體的なる者を知ると思うている,。しかし個(gè)體を離れて一般的なる者があるのではない,、真に一般的なる者は個(gè)體的実現(xiàn)の背後における潛勢(shì)力である、個(gè)體の中にありてこれを発展せしむる力である、たとえば植物の種子の如き者である,。もし個(gè)體より抽象せられた他の特殊と対立する如き者ならば,、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である,、かかる場(chǎng)合では一般は特殊の上に位するのではなく,、これと同列にあるのである、たとえば,、色ある三角形について,、三角形より見(jiàn)れば色は特殊であるであろうが、色より見(jiàn)れば三角は特殊である,。かくの如き抽象的で無(wú)力なる一般ならば推理や綜合の本となることはできぬ,。それで思惟の活動(dòng)において統(tǒng)一の本たる真に一般なる者は、個(gè)體的現(xiàn)実とその內(nèi)容を同じうする潛勢(shì)力でなければならぬ,、ただその含蓄的なると顕現(xiàn)的なるとによりて異なっているのである,。個(gè)體とは一般的なる者の限定せられたのである。個(gè)體と一般との関係をかくの如く考えると,、論理的にも思惟と経験との差別がなくなってくる,。我々が現(xiàn)在の個(gè)體的経験といっている者も、その実は発展の途中にある者と見(jiàn)ることができる,、即ちなお精細(xì)に限定せらるべき潛勢(shì)力を有っているのである,。たとえば我々の感覚の如き者でもなお分化発展の余地があるのであろう、この點(diǎn)より見(jiàn)てなお一般的となすこともできる,。これに反し一般的の者でも,、発展をその処にかぎって見(jiàn)れば、個(gè)體的ということもできるであろう,。普通には空間時(shí)間の上において限定せられた者をのみ個(gè)體的と稱えている、しかしかかる限定は単に外面的である,、真の個(gè)體とはその內(nèi)容において個(gè)體的でなければならぬ,、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個(gè)體である,。この意味より見(jiàn)れば,、普通に感覚或は知覚といっているような者は極めて內(nèi)容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる畫家の直覚の如き者がかえって真に個(gè)體的といいうるであろう,。すべて空間時(shí)間の上より限定せられた単に物質(zhì)的なる者を以て,、個(gè)體的となすのはその根柢において唯物論的獨(dú)斷があるであろうと思う。純粋経験の立腳地より見(jiàn)れば,、経験を比較するにはその內(nèi)容を以てすべきものである,。時(shí)間空間という如き者もかかる內(nèi)容に基づいてこれを統(tǒng)一する一つの形式にすぎないのである。或はまた感覚的印象の強(qiáng)く明なることと,、その情意と密接の関係をもつことなどがこれを個(gè)體的と思わしめる一原因でもあろうが,、いわゆる思想の如きも決して情意に関係がないのではない。強(qiáng)く情意を動(dòng)かす者が特に個(gè)體的と考えられるのは,、情意は知識(shí)に比して我々の目的その者であり,、発展の極致に近いからであると思う。

我們通常認(rèn)為,,通過(guò)思維感知一般性的東西,;通過(guò)經(jīng)驗(yàn)感知個(gè)別性的東西。但是,,沒(méi)有離開個(gè)別的一般性的東西的,,真正一般性的東西,是在個(gè)別的實(shí)現(xiàn)背后的潛能,,又是存在于個(gè)別之中并使個(gè)別發(fā)展的一種力量,,像植物的種籽就是一個(gè)例子。如果是同從個(gè)別抽象出來(lái)的其他特殊相對(duì)立的東西,,那就不是真正的一般,,而仍然是特殊。在這種情況下,,一般并不處于特殊之上,,而是和它并列的。如就有色的三角形來(lái)說(shuō),,從三角形來(lái)看,,顏色將是特殊;但從顏色來(lái)看,,則三角是特殊,。這種抽象而無(wú)力的一般,是不能成為推理和綜合的基礎(chǔ)的,。因此在思維的活動(dòng)方面,,作為統(tǒng)一的基礎(chǔ)的真的一般,必須是把個(gè)別的現(xiàn)實(shí)和它的內(nèi)容等同起來(lái)的潛能,。只有由于它有時(shí)含蓄,,有時(shí)顯露,才發(fā)生差異,。所謂個(gè)別,,就是被局限的一般性的東西。如果是這樣來(lái)看個(gè)別與一般的關(guān)系,,那么在邏輯上,,思維與經(jīng)驗(yàn)的差別也就消失了,。我們所說(shuō)的現(xiàn)在的個(gè)別經(jīng)驗(yàn),實(shí)際上可以看做是在發(fā)展途中的東西,,也就是還具有能被精細(xì)地局限的潛能,。例如我們的感覺(jué)恐怕也還會(huì)有分化發(fā)展的余地的。從這一點(diǎn)來(lái)看,,也還可以看做一般性的,。反之,雖然是一股性的東西,,如果只在一個(gè)特定的場(chǎng)合下來(lái)看它的發(fā)展的話,,也就可以說(shuō)是個(gè)別性的。通常只把受空間,、時(shí)間局限的東西,,稱為個(gè)別性。的,。但是,,這種局限只是外在的,所謂真正的個(gè)別,,它的內(nèi)容必須是個(gè)別的,,即必須是具有唯一這種特點(diǎn)的。一般性的東西,,發(fā)展到了頂點(diǎn),,就是個(gè)別。從這個(gè)意義來(lái)看,,通常所謂感覺(jué)或知覺(jué)是內(nèi)容極為貧乏的一般性的東西,,也許含意深遠(yuǎn)的畫家的直覺(jué)倒真正可以說(shuō)是個(gè)別性的。凡是把在空間,、時(shí)間上受到局限的單純的物質(zhì)看做是個(gè)別的,,這種觀點(diǎn)在根基上可能帶有唯物主義的獨(dú)斷。如從純粹經(jīng)驗(yàn)的觀點(diǎn)來(lái)看,,就必須從內(nèi)容方面來(lái)對(duì)經(jīng)驗(yàn)進(jìn)行比較,。所謂時(shí)間也只是某于這種內(nèi)容而對(duì)它進(jìn)行統(tǒng)一的一種形式而已。此外感覺(jué)的印象的強(qiáng)烈明顯以及與情意具有密切關(guān)系等也將是促使把它視為個(gè)別性的一個(gè)原因,,但所謂思想也決不是與情意無(wú)關(guān)的。強(qiáng)烈挑起情意的東西之所以特別被認(rèn)為是個(gè)別性的,,我認(rèn)為這是由于與知識(shí)相較,,情意才是我們的目的本身,并接近發(fā)展的頂點(diǎn)之故,。
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   これを要するに思惟と経験とは同一であって,、その間に相対的の差異を見(jiàn)ることはできるが絶対的區(qū)別はないと思う,。しかし余はこれが為に思惟は単に個(gè)人的で主観的であるというのではない、前にもいったように純粋経験は個(gè)人の上に超越することができる,。かくいえば甚だ異様に聞えるであろうが,、経験は時(shí)間、空間,、個(gè)人を知るが故に時(shí)間,、空間、個(gè)人以上である,、個(gè)人あって経験あるのではなく,、経験あって個(gè)人あるのである。個(gè)人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範(fàn)囲にすぎない,。

總之,,我認(rèn)為思維與經(jīng)驗(yàn)是同一的,在它們之同雖能看到相對(duì)的差異,,但并沒(méi)有絕對(duì)的區(qū)別,。不過(guò),我并不因此斷言思維是個(gè)人的和主觀性的,;如上所述,,純粹經(jīng)驗(yàn)是能夠超越于個(gè)人之上的。這種說(shuō)法似乎聽(tīng)來(lái)很奇怪,,但經(jīng)驗(yàn)是能夠感知時(shí)間,、空間和個(gè)人的,所以存在于時(shí)間,、空間和個(gè)人之上,,不是有了個(gè)人才有經(jīng)驗(yàn),而是有了經(jīng)驗(yàn)才有個(gè)人,。所謂個(gè)人的經(jīng)驗(yàn)只是在經(jīng)驗(yàn)之中被局限的某種經(jīng)驗(yàn)的一個(gè)特殊小范圍而已,。

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注釋:

本文譯自西田幾多郎《善的研究》第一編【純粹經(jīng)驗(yàn)】第二章。

[1] 譯者簡(jiǎn)介:何倩,,中國(guó)社會(huì)科學(xué)院日本所研究員,。

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